亀の放生

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    亀を買って、放した話

                 宇治拾遺(13の4)
                 今昔(巻9 第13)

 昔、天竺の人が、宝を買うために、銭50貫を子に持たせてやりました。

 大きな川の土手を歩いていくと、船に乗った人が居りました。その船の方を
見ますと、船から5匹の亀が首を突き出しているのです。

 銭を持った子は立ち止まって、
「その亀は、なんの亀ですか?」
とたずねました。

「殺して食べるのだよ。」
とその船の男が答えました。

「その亀を買いましょう。」
と言いますと、この船の人は、
「非常に大切なことがあって、手に入れた亀なので、並大抵の銭では売れない
よ。」
と言います。

 無理やり、頭を下げ、手をすり合わせて、この50貫の銭で亀を買い取って、
水に放しました。

 心の中で考えました、親の宝を買いに、隣の国に行くところ、その銭を、亀
に換えてしまったので、親はどんなに腹を立てているだろう、と。
だからと言って帰らないわけにもいかないので、父親の元に向かいました。す
ると、道で出会った人が、
「ここで亀を売った人は、この川下の渡し場で、船が転覆して死んだよ。」
と言うのを聞いて、家に帰りました。

 家に帰り着いて、銭は亀に換えてしまったことを語ろうとすると、親が、
「どうして、この銭を返してよこしたのか。」
と言うのです。

 子は、
「そういうことはありません。その銭では、これこれの事があって、亀に換え
て放生(ほうじょう)したので、そのことを申し上げようと戻ってきたのです。」
と言いました。

 すると、親は、
「黒い着物を着た同じような人が、5人それぞれ10貫ずつ持ってきたのだ。そ
れがそれだよ。」
と言って、見せると、その銭はまだ濡れたままです。

 なんと、買い放した亀が、その銭が川に落ちたのを見て、拾い上げて、親の元
に子が帰らぬ先に届けたのでした。
                        おわり

しょうげんの一言:動物の恩返しの一つですね。

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Category: 古典文学

蝦蟇退治?

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  近衛の御門に人を倒す蝦蟇(ひきーひきがえる・がま)のものがたり

                       (今昔 巻8 第41)

 むかーし昔。
 或る天皇の御代に、近衛の御門(大内裏東面の陽明門)に、人を倒す蝦蟇が
いました。

 どうしたわけでしょうか、近衛の御門の内側に、大きな蝦蟇が一匹いて、黄
昏時になると出てきて、ただ平らな石の様に踞っているので、宮中に参内や退
出したりする上下の人々が、これを踏んで転ばない人はおりませんでした。

 人が倒れると、蝦蟇はすぐに這い隠れて見えなくなってしまうのです。

 やがて、人々はそうだと分かったけれども、どうしたことでしょうか、同じ
人がこれを踏んで、何度も何度も転びました。

 ある時、一人の大学寮の学生がおりました。まったくの愚か者で、何につけ
笑い物にしたり謗ったりする男でした。

 この男が、蝦蟇が人を倒すと言うことを聞いて、
「一度くらいは、油断しても転ぶこともあるだろう。しかし、そうと知ったか
らには、押し倒す人が居たとしても、倒れることがあろうか。」
等と言ってました。

 暗くなる頃、大学から出て、かねて恋仲の内裏に仕えている侍女の許へ語ら
いに出かけましたところ、近衛の御門の内側に蝦蟇が平たくなって踞っていま
した。

 この男は、
「なんとこやつ、そのように人を騙しても、我をば騙せようか。」
と言って、平たくなっている蝦蟇を飛び越えました。

 髷を押し入れただけの冠をかぶっていたので、飛び上がった途端に脱げ落ち
て、沓に当たったのを、勘違いして、
「人を倒す蝦蟇は、おまえか、こんちくしょうめ。」
と言って、踏みつけました。

 髷を入れる部分は固くなっているし、何とも反応がないので、
「蝦蟇のちくしょうは、こんなに強いのか。」
と言って、無い力を振り絞って、むやみやたら踏みつけました。

 その時、内裏から、松明を灯した男を先に立てて上達部がお出になったので、
その男は、橋のたもとに膝まづきました。

 先に立った男が、灯りを寄せてみると、表の衣(うえのきぬー正装の上着)
を着た男が、髷を露わにして膝まづいているので、
「これはなんだ、何者だ。」
と口々に騒いでいると、男は、声を張り上げて、
「自然に噂でもお聞きでしょう『我こそは紀伝学生藤原の某、並びに近衛の御
門で人を倒す蝦蟇の退治者』」
と名乗りました。

 「そんなことを言ってるのは何者だ。」
と笑い罵って、
「そやつを引きずり出せ。よく顔を見よう。」
と言って、雑式(ぞうしきー下役人)どもが、近づいて引っ張ると、衣が破れ
てしまいました。

 男は、困ったことだと思って、頭に手をやると、冠がなかったので、この雑
式どもが取ったのだと思って、
「冠をどうして取ったのか。それを返せ、返せ。」
と言って、追いかけたひょうしに、近衛大路にうつ伏せに倒れてしまいました。

 顔をぶつけたので、血が流れ出しました。

 そこで、袖で頭を隠すようにして歩いていく中に、道に迷って、何処を歩い
ているのか分からなくなり、辛うじて、灯りの見えるところを見つけ、見知ら
ぬ小家に立ち寄って、戸を叩いたけれども、こんな夜中にどうして戸を開ける
でしょうか。

 なお夜が更けてきたので、どうしようもなく、道ばたに横になりました。

 夜が明けて、家々の人が起きて見ると、髷の元結いが解けて、ざんばら髪で
上の衣を着た男が、顔は傷つき血を滲ませて、大路の道ばたに寝ているので、
「これは、なんだ。」
と大騒ぎになりました。

 ようやく、その男は起きあがり、道を尋ねながら、帰りました。

 昔は、このような愚か者が居たのです。しかし、大学寮の学生だったのです。

 このように幼稚なことで、賢明に漢文を読み習ったというのは、まったく信
じられないことです。

 だから、人は、職業や風体よりも心の用い方が大切なのです。

 この話は世間に広めるべきでもないのですが、その大学寮の学生が語ったの
を聞き次いで、このように語り伝えたと言うことです。

                             おわり

しょうげんの一言:武士が名乗りを上げてから闘うのを揶揄している面もあるのでしょうか。
           また、身に付かない学問に対しても、同様ですね。


Category: 今昔物語

つまらないあだな

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忠輔中納言異名を付けらるるものがたり

                      (巻28 第22)

 むかーし昔。
 中納言藤原の忠輔という人がおりました。

 この人は、いつも顔を反らして空を見ている様子だったので、世間の人は、
「仰向け中納言」と陰で言ってました。

 ところが、その人が右中弁として殿上人であったときに、小一条の左大将済
時(なりとき)という人が、内裏に参上して、この右中弁に出会いました。

 大将は、右中弁が仰向きになっているのを見て、ふざけて、
「今、天には何事かありますかな?」
と尋ねました。

 右中弁は、こう言われて、むっとして、
「たった今、天には、大将を犯す星が出現しました。」
と返事しました。

 大将は、嫌なことを言う奴だとは思いましたが、自分から冗談を言いかけて、
冗談で返されたので、腹を立てる訳にもいかず、苦笑いをして済ませました。

 ところが、その後、大将は、間もなくお亡くなりになりました。

 だから、この冗談のせいかと、右中弁は思い合わせました。

 人が命を落とすのは、みな前世からの定めとは言いながら、つまらない冗談
を言うものではありません。

 このように思い当たることもあるからです。

 右中弁は、その後しばらく経って中納言まで昇りましたが、その異名は無く
ならないで、世間の人は「仰向け中納言」と名付けて笑ったと、語り伝えたと
言うことです。

しょうげんの一言:本来なら、「仰向け右中弁」と呼ばれたと思うのですが・・・。

Category: 今昔物語

恥をかいた歌人

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円融院の御子(おんね)の日に参る
            曽祢吉忠(そねのよしただ)のものがたり

                    (今昔 巻28 第3)

註:本文中の「好忠」が正しい。当時歌道における革新者だったが、保守的な
 歌壇からは受け入れられなかった。家集「曽丹集」がある。


 むかーし昔。

 円融院が退位なさった後、御子(正月子の日、人々野に出て小松を引いて千
代を祝う遊び)の日の遊びに、船岳(ふなおか)というところにお出かけになっ
た際に、堀河の院からお出になって、二条から西へ大宮まで、大宮から北にお
上りになったとき、物見車は隙間もないほど立ち並んでいました。

 お供としてお仕えしている上達部殿上人の装束は、書こうとしても書き尽く
すことは出来ません。

 院は、雲林院の南の大門の前で、馬にお乗りになって、紫野にご到着なさい
ました。

 船岳の北側に、小松が所々群れている中に、遣り水を流し、石を立て、砂を
敷いて、唐錦で屋根を平らに張り、簾をかけ、板敷きを敷いて、高欄をめぐら
し、その素晴らしさは言いようもありません。

 そこにご着座になり、その廻りに同じ錦の幕を引きめぐらして、近くに上達
部の座があり、その次ぎに殿上人の座があります。

 殿上人の座の末の方に、幕に沿って横の方に和歌読(うたよみ)の座があり
ました。

 円融院がご着座になったので、上達部殿上人は御指示に従って座に着きまし
た。和歌読どもは、兼ねてからお呼び出しがあったので、みな参上しておりま
す。

 「座にお着きなさい。」
という指示があって、静かに寄ってきて座に着きました。

 その和歌読どもは、大中臣の能宣(おおなかとみのよしのぶー後撰集撰者の
一人)、源の兼盛(かねもりー平の間違い、三十六歌仙の一人)、清原の元輔
(後撰集撰者の一人)、源の重之(しげゆきー三十六歌仙の一人)、紀の時文
(後撰集撰者の一人、紀貫之の子)などです。

 この五人は、前もって、院から「回し文」で、参上せよとのご指示があった
ので、みな衣冠を整えて参上していました。

 既に座について並んでいると、一足遅れの感じで、この和歌読の座の末に、
烏帽子をつけ薄墨色の狩衣袴のみすぼらしい姿の翁が来て、座に着きました。

 人々が、これは何者かと思って、よくよく見ると、曽弥の好忠でした。

 殿上人たちが、
「あれは、曽丹(そたん)が来ているのか。」
と、小声で聞くと、曽丹がそれを耳にして、気取って、
「さようでございます。」
と答えました。

 その時、行事の判官代(ほうがんだいー院庁に仕える役人)に、
「あの曽丹が参るように、呼んだのか。」
と、殿上人が尋ねると、判官代は
「そのようなことはありません。」
と答えます。

「それでは、誰か他の人が院のご指示を承って申し伝えたのか。」
と他の者にも尋ねましたが、まったく承ったという人も居ません。

 そこで、行事の判官代が、曽丹の座っていた後ろに寄って、
「これは何としたことか。お召しもないのに、参上して座っているとは。」
と尋ねました。

 曽丹は、
「和歌読みどもが参上すべき催しがあると承ったので、参上したのです。どう
して参上しないではいられましょう。ここに並んでいる人たちに劣る私ではあ
りません。」
と答えました。

 判官代はそれを聞いて、こいつはお召しもないのに、自分勝手に押し掛けて
きたのだと知って、
「なんとお召しもないのに参上するとは。ささっと退出せよ。」
と追い立てましたが、立ち上がらず座ったままです。

 その時、法興院の大臣(ほっこういんのおとどー藤原兼家)、閑院の大将
(かんいんのだいしょうー藤原朝光)などが、この事をお聞きになり、
「襟首をつかんで引き立てよ。」
と指図なさいました。

 若く血気盛んな身分の低い殿上人どもは、大勢で曽丹の後ろに寄って、幕の
下から手を差し入れて、曽丹の狩衣の頸をつかんで、仰け様に引き倒して、幕
の外に引きずり出したのを、殿上人どもは一足ずつ踏みつけたので、七,八回
は踏まれたようです。

 曽丹は立ち上がり、なりふり構わず走って逃げたので、殿上人の若い随身や
小舎人童(こどねりわらわー近衛の中少将などに使われて牛車の前などに立つ
者)どもは、曽丹の走る後を追いかけて、手を叩いて笑いました。

 放れ馬でも追うように、大声を出して罵りました。それを見た沢山の人、老
人・若者の区別もなく、大笑いしました。

 曽丹は、小高い丘に走り登って、振り返り、追いかけてきて笑っている者達
に向かって、大声で、
「お前らは何を笑うのか。自分は恥ずかしいことはしていないぞ。良く聞けよ、
太上天皇が子の日に外出なさった。和歌読どもを召すと聞いて、好忠が参上し
て座に着いたのだ。それなのに、散々弄ばれ、次ぎに追い立てられ、次ぎに蹴
られた。どんな悪いことをしたというのか。」
と言いました。

 それを聞いて、身分の上下に関わらず、止めどもなく笑いました。

 その後、曽丹は逃げていってしまいました。当時の人は、みんなこの事を語っ
ては笑いました。

 だから、素性の賤しい者は、やはり愚かな所があるものです。好忠は確かに
和歌は詠みましたが、常識知らずで、和歌読どもを召すと聞いて、お召しもな
いのに参上してこのような恥をかき、多くの人に笑われて、末代までの話題に
なったと語り伝えたと言うことです。

                      おわり

しょうげんの一言:貴族社会では、範疇から外れた者に対する揶揄嘲笑は容赦ないですね。

Category: 今昔物語

祭り見物

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 賀茂祭の日、一条大路に札(ふだ)を立てて見物する翁のものがたり

                  (今昔 巻31 第6)

 むかーし昔。

 賀茂祭の日、一条を東の洞院の角に、暁から高札が立っていました。

 その高札には、
『ここは翁(おきな)が行列見物しようとする場所である。人は立ち寄っては
いけない。』と書いてありました。

 人々は、その高札を見て、敢えてその辺りに寄りません。

 これは、陽成院が行列見物なさろうとしてお立てになった札だと、みんなは
考えて、徒歩の人は全く寄りません。

 ましてや、車はその高札の側には止めなかったのですが、ようやく行列が通
ろうとするとき、薄黄色の上衣と袴を着けた翁が出てきて、左右をゆったりと
眺め、扇を高々と使って、その高札の所に立って静かに行列を見物し、行列が
通り過ぎてしまうと立ち去りました。

 そこで人々は、
「陽成院が、行列をご覧になるはずだったのに、不思議なことにおいでになら
なかったというのは、どういうわけでご覧にならなかったのか。高札を立てな
がらいらっしゃらなかったのは、どうにもわけがわからないことだ。」
と口々に納得せずに言い合っています。

 またある人は、
「この行列見物した翁の態度はとんでもないことだな。こやつは、院がお立て
になった高札と人に思わせて、この翁が立てて、自分が良い場所を独占して見
物しようと企んだのだろうか。」
などと言いました。

 さまざまに、人々が推測して言っていることを、自然に陽成院のお耳に達し
ますと、
「その翁を捜し出して問え。」
とおっしゃいました。

 その翁を捜しますと、その翁は西の八条の刀禰(とねー村・里の長)でした。

 そこで、院から下役人を遣わして召喚したので、翁は参上しました。

 院の司が、院のご指示を受けて、
「おまえは、どんな考えで、院がお立てになったものだと書いて、一条大路に
高札を立てて、人を脅し、得意然としてけんぶつしたのか。その件についてき
ちんと申し述べよ。」
と尋ねました。

 翁は、
「高札を立てたのは、確かに私がしたことです。しかし、院がお立てになった
高札とは、まったく書いておりません。私はすでに年は80歳になりましたの
で、行列見物しようという気もありませんでした。ところが、孫でございます
男の子が、今年は内蔵寮(くらりょう)の役人として、行列に参加したのです。
その孫の晴れ姿をどうしても見たいと思いましたが、年を取り老いてしまいま
した。人混みの中にのこのこと出ていって、踏み倒されて死んではつまらない
と思いまして、人が寄ってこない場所で、ゆったりと見物しようと考えまして、
立てた高札です。」
と述べました。

 陽成院は、これをお聞きになり、
「この翁は、うまいことを思いついて高札を立てたものだな。孫の姿を見よう
と思ったというのも頷ける。こいつは、非常に賢い奴じゃ。」
と感心なさって、
「もう帰っても良いぞ。」
とおっしゃいました。

 翁は、得意顔で家に帰り、妻の媼に、
「わしの工夫したことが悪いはずがない。院もあのように感心なさった。」
と言い、自分は賢いのだと思っていました。

 しかし、世間の人は、院がこの様に感心なさったことに、賛意を示しません
でした。でも、翁が孫を見たいと思ったのは当然だと、人々が言ったと、語り
伝えたと言うことです。

しょうげんの一言:一般庶民の娯楽は少ない時代ですから、行列見物には沢山の人が集
           まったのでしょうね。
           『高札』が正式の物かどうかは、見れば分かると思うのですが・・・

Category: 今昔物語
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